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赤い子馬(スタインベック)

ジョーディは父親に尋ねる。「あの山の向こうに何があるの?」


スタインベックの掌編「赤い子馬」は、アメリカの開拓時代を代表する、いわゆる児童文学の名品だ。同じ時代の作品として最も良く知られているのはワイルダーの「大草原の小さな家」のシリーズだろう。あるいはローリングスの「子鹿物語」か。


子どもの世界は実際には限られた空間だ。大人になってから故郷を歩き回り、あのころあんなに遠く思えて、そこに行くことが不安に思えた場所が、車で5分とかからない近傍であったことを知る。しかし、幼き頃の自分の世界は、現実の空間とは違ったものであった事にも気づく。その世界は、今はどこにもないのだ。いや、当時でさえどこにもなかったものなのかもしれない。それはすべて、自分の小さな脳が作り出した仮想だったのかもしれない。


父親は答える。「また、別の山があるのさ。なぜそんなことを聞くのだね?」
「その山の向こうは?」
「また、山さ。なぜだね」…
「行ってみたらおもしろいだろうな」
「どうしてだね。何にもありゃしないんだよ」
だが、ジョーディは思うのだ。「未知であればこそ、何かとてもすばらしいもの、神秘に満ちた不思議なものがあること」を。

ジョーディは母親にも尋ねる。「あの大きな山の中に何があるか、お母さん、知らない?」
「熊がいるだけだろうね」
「熊って、どんな熊?」
「なあにね。山の向こうに何があるのだろうと思って行ってみた熊さ」


現実的な父親よりも、母親の答えには少しのユーモアも感じる。
良く知られているカントリーミュージックの歌詞のようだ。

時代は、しかし、そんなに古くはない。作者のスタインベックは1902年の生まれである。その子供時代は、世界を変えた、あの第一次世界大戦がはじまる少し前のころのようだ。ローラ・ワイルダーが描く時代よりも40年近く新しい。

(ああ、それにしても現代は世界が移り変わるスピードが速すぎる。このスピードは子どもたちの世界にどんな影響をあたえるのだろう!)

アメリカのカリフォルニア州の中央にある、二つの山脈に挟まれた、サリーナスという谷間で、牧畜を生業(なりわい)としている両親のもとに、ジョーディ(スタインベック)は育った。「赤い子馬」は、厳しい大自然の中での、人や動物の「生き死に」がテーマになっている(と思う)。おそらく大自然と呼ばれるものから離れて生活している読者の多くにとっては、とりわけ「死に」の部分は、息を止めるほどの迫力を伴っている。

10才の少年ジョーディーは、両親から贈られた子馬を責任感を持って大切に世話していたが、子馬は病気になり痩せ衰えていってしまう。そして気づかないうちに小屋を抜け出し、行方不明になってしまう。探しに出たジョーディーは、遠く丘のふもとに横たわり力なく脚を動かす子馬と、それを取り囲むハゲワシの群れを見つける。

ジョーディは身をおどらせ、一目散に丘を駆け下りた。露に濡れた大地は足音を消し、ヨモギの茂みは体を隠してくれた。だが、ようやくその場所へ駆けつけてたとき、すでにすべては終わっていた。仲間に先んじた一羽のハゲワシが、早くも子馬の頭にとまり、ちょうど目玉を突っつき終って、黒い水様液のしたたるくちばしを持ち上げたところだった。ジョーディは、ハゲワシの輪の中に、猫のようにおどりこんだ。その真っ黒なやからは、いっせいに飛び立ち、まるで雲かと思われたが、子馬の頭にとまっていた大きな一羽は逃げ遅れた。ぴょんぴょん跳んで正に飛び立とうとするのを、ジョーディはその羽の先をひっつかんで、ひきずり下ろした。ほとんど彼と同じくらいの大きさのやつだった。自由のきく一方の羽が、こん棒にもひとしい強さで、彼の顔をバサッと打ち払った。だが、彼は手を放さなかった。爪は彼の足をつかんで離さず、翼の肘は頭の左右に容赦なく強打を与える。ジョーディは、あいているほうの手で、盲探りに相手の体を求めた。ついに彼の指は、暴れまわる相手の首を探りあてた。その真っ赤な眼が、彼の顔をじっと見つめた。落ちついた、恐れを知らぬ、険しい眼だ。毛のない裸の頭を、右から左、左から右へと動かす。と、くちばしが開いて、腐敗した液体をどっと吐き出した。ジョーディは片膝を高く上げ、のしかかるようにしてこの巨大な鳥を押し倒した。そして、一方の手で相手の首を地面にくっと押さえつけながら、いま一方の手で、鋭くとがった白い石英を探した。最初のひと打ちで、くちばしは横に割れ、皮のように固い、ねじ曲がった口のすみから、真っ黒な血がほとばしり出た。つづいていま一度なぐりつけた。だが、今度は狙いがはずれた。恐れを知らぬ、真っ赤な眼は、依然として彼をじっと見すえている。どこ吹く風かといった、大胆不敵な、冷然とした眼だ。ジョーディは一度また一度と、繰り返しなぐりつけた。ハゲワシはついに息絶えた。頭は完全につぶれ、真っ赤な肉の塊と化した。その死んだハゲワシをなおもなぐりつづけていると、ビリー・バックが彼を死体から引き離し、興奮を静めてやるために、震える体をきつくだきしめた


…圧倒的な描写だ。甘い、子どものための物語を求める読者は、息を止め、これは私の子供には向かないと思うのではないか。しかし果たしてそうなのだろうか。子供の現実には、やはり、「生きること」だけではなく「死ぬこと」も含まれている。それは例えば、ローリングスの「子鹿物語」で主人公の子供が最後には子鹿を銃で打って死なせることになる結末にも垣間見える。子供は、大人の思いを超えて、物語の中の「現実」から学ぶのだ。

「物語」とは、主人公の成長(変化)を描いた文章のことであるという定義があるが、「赤い子馬」は、四つの、短編とも呼べる章の中で、ジョーディの成長を、みずみずしく描く、正真正銘の物語であり、文学なのだ。

登場人物は少ない。ジョーディの他には、厳格な父親と、優しい母親、農場の使用人である年配者のビリーと、第二話に母方の祖父が登場するだけだ。しかし、多くの子供たちの世界がそうであるように、飼われている犬や家畜、鷲やネズミなどの動物たちが名脇役となっている。そして自然と人物の描写にあふれるすべてのディテールが、この物語に色彩と音楽を与えている。

……いくつもの引用をしたい誘惑に駆られるが自制をしよう。


スタインベックは、日本流に言えば「純文学」の書き手であろう。例えばローラ・インガルスの、短文を積み重ねた、子供向きの書き方とは確かに大いに異なっている。スタインベックを十分に味わうためには英文に当たらなくてはならないのだろう。しかし、そんな大人の理屈を述べる前に、翻訳文からも十分に伝わってくる、人としての「生き死に」にまつわる悲喜こもごもを、自身の人生と重ねて、この物語を単純に味わうことが肝心なことだ。作者との心の共振を経験することこそが、すべての読書の要諦なのだ。



………むむむ、なんか、かしこまった読書感想文になってしまった。たまには、こういうのもいいか。
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「フィンチの嘴(くちばし)」


フィンチの嘴―ガラパゴスで起きている種の変貌 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)フィンチの嘴―ガラパゴスで起きている種の変貌 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
(2001/11)
ジョナサン ワイナー

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子どものころ、船乗りになって世界の海を航海することが夢でした。海や船が出ててくるテレビ番組が好きで、日曜日は朝から「日本の漁業」なんていう渋い番組を見てました。そのあと午前11時くらいかな、「兼高かおる世界の旅」も好きでした。テーマ曲が今でも思い浮かびます。「絶海の孤島」とか「無人島」は憧れの代名詞ですね。日本の無人島ものとして「無人島に生きる16人」(新潮文庫)はおすすめの本です。→あこがれの無人島

本から影響を受けやすいボクは、ハインリッヒ・シュリーマンの伝記を読んで、考古学の発掘にもあこがれました。ボクは考古学者になるっ!なんて、息巻いていた時期もありました。同時期にマリー・キュリーの伝記を読んで、ぜったい科学者になるなんて言っていたこともありましたから、夢の数を数えたらきりがありません。

生来の動物好きであるボクは、例えば「ソロモンの指輪」を読んで、動物行動学者コンラート・ローレンツの生活にも大いにあこがれました。じっさいに野良猫をいっぱいなつかせて近所に迷惑をかけたこともありましたっけ。

そんなボクがやっぱり「いいな」と思う科学者たちの研究を描いた本が「フィンチの嘴」です。
進化生物学者のピーター・グラント博士と妻のローズマリー・グラント博士が、あのダーウィン諸島のダフネ島でフィンチの生態を研究するために過ごした数年(1973~1978)を中心にして描いた本です。その後の「フィンチ研究団」の研究も含め、約20年間のフィンチの変化が記録されています。作者のジョナサン・ワイナーはこの本でピューリッツァー賞を受賞したそうな。フィンチの嘴の変化は、良く知られているように、進化を裏付ける証拠としてしばしば登場しますので、この本をちゃんと読んでおこうと思ったのでした。

じつはこの本、ボクが時々読ませてもらっているブログの紹介で知りました。野鳥観察を続けておられるかたで、この方の紹介してくださる本は興味深いものばかりなのです。このブログ主さんも、時々ボクのブログを読んでくださっているようなので、ボクが進化論を信じていないということを繰り返し述べていることで、あきれているのではないかなと推測しています。どうぞ、ご辛抱くださいませ。

さて、ガラパゴス諸島のダフネ島で、ピーターとローズマリーはフィンチの観察を始めます。(地上)フィンチがとても人懐こい鳥であることに、ボクは「いいな~」と思いました。人を恐れずに、腕や肩や、コーヒーカップの淵にとまるのです。なんか楽園みたい。「そばかすの少年」(ジーン・ポーター)になついた野鳥たちみたい。→片腕の森の番人

フィンチの観察方法は単純です。できるだけ捕獲し、くちばしのサイズ(長さ・高さ・幅)などを計測し、足環をつけてから戻します。また、肉眼や双眼鏡を用いて、エサの種類や繁殖行動や巣の様子などを根気よく観察し続けます。

二人が観察を続けていた五年目の1977年は厳しい干ばつの年となり、フィンチたちの生き残るための競走は激しくなりました。ダフネ島にいた1200羽のガラパゴスフィンチが180羽にまで減ってしまったのです。生き残ったフィンチは、堅い種子の殻を割ることに適した太い丈夫な嘴をもつものでした。

グラント夫妻の研究は確かに、干ばつと食料不足という自然環境がもたらした「自然選択」もしくは「適者生存」という自然界のおきてを例証する、すぐれた研究だと言えます。

興味深いのは、その後のダフネ島で起きた事柄です。

1982年から1983年の間に起きたエルニーニョ現象によって、多量の雨がもたらされた結果、今度は「選択の方向の逆転」が起きるのです。つまり、体が小さく、くちばしの小さなフィンチが有利となりその数を増やしたのです。ピーター・グラント博士も1991年に、「個体群は自然選択の影響を受けて、(気候が変わるごとに)変動を繰り返すのである」と書いています。

この本を読みながら、ボクの思いにあったのは、「くちばしの形が変わってもフィンチはフィンチのままなんだよな。小進化ではなくて大進化につながる説明をしてくれないかな」という願いでした。

その願いがかなえられそうな主題の章がありました。第9章「変異による創造」です。

この章では、「変異」が「大進化」につながるということに対する、否定的な意見がまず多数引用されます。
著者のワイナーも、「新しい種はどうやってできるのか。変異からどのように新しい種が生まれるのか。…自然選択が進化を引き起こすことを実証することと、進化と新しい種の因果関係を説明してみせることは全く別のことであり、後者のほうがはるかにむずかしい」と書いています。また、ピーター・グラント博士の言葉として「個体変異から新しい種が生まれる過程は、21世紀に入ってもしばらくは進化生物学者の頭を悩ませる問題だろう」という言葉を紹介しています。

「おやおや、どうなるのかな?」と思って読み進めると、論議はやはり曖昧になり、何の根拠も示されないままに、「しかしそれは起こっている」と断定され、「なぜこんなにたくさんの動物や植物の種があるのだろうか?」という疑問にすり替えられて、この章は終わってしまいました。

「やっぱりね。まあ、こんなもんでしょう」というのがボクの偽らざる感想です。

とはいえ、この本は勉強になりました。進化の例としての他の研究も多数紹介してくれたからです。
もちろん、すべて「小進化」つまり「変異」の例にすぎないのですが…
フジツボ(54ぺージ)・グッピー(119)・ウタスズメイ(139)・イスカ(233/348)・トゲウオ(236)・ミバエ(248)・イエスズメ(286)・ヤガ(317)・大腸菌(325)・オオシモフリエダシャク(341)などです。

進化論関連の用語にも慣れる機会になりました。
分岐・融合・選択圧・性選択・適応放散・競争排除・形質置換などです。何にせよ、良く知らなかったことを知ることは嬉しいことですね。

何よりも、熱心な研究者たちの努力には、励みを得ました。ダフネ島の何百というフィンチを、ほとんど個体識別できるほどに観察し続ける事は並大抵の努力ではありませんよね。…ボクも頑張らなくちゃ(何を?)と思わせられるのです。
読んでいるうちに、ボクでさえ13種類のフィンチを覚えることになりました。


ボクはこの本を読む以前に、「進化のイコン」(ジョナサン・ウェルズ)を読了していました。この本の中でも、進化の好例としてしばしば取り上げられるフィンチの例について詳しい説明がありました。立場の違う二つの本を読み比べることは良い刺激となりました。

ジョナサン・ウェルズこのように述べています。
グラント夫妻のすぐれたフィールドワークは自然状態での自然選択の見事な実証を示してくれた。…もし、グラント夫妻がそこでやめていたら、彼らの仕事は科学の最もすぐれた例として位置づけられたかもしれない。しかし彼らは、証拠が保証できる以上の意味を、自分たちの仕事に見いだそうとした。1996年と98年に発表された論文でグラント夫妻は、種の起源に関するダーウィンの理論は『ガラパゴス諸島でのダーウィン・フィンチの進化の事実にぴったり合う』と宣言し、『進化の推進力』は自然選択だと言ったのである

進化論関係の本の中ではしばしば「変異」と「進化」が同意語として登場しますが、それはボクには不満を残します。
論点があいまいになるのです。

現在読書中の「宇宙は神が造ったのか?」(リー・ストロベル)という本の中では時々「大進化論」という言葉が登場しますが、この言葉のほうが論点を分かりやすくするのではないかな、と思います。

以前に書いた記事→小進化と大進化の中で引用した定義のように「変異(小進化)」と「進化(大進化)」に分けてボクは考えたいと思っています。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説:
アメリカの動物学者ゴルトシュミットR. B. Goldschmidt(1878―1958)は、普通の遺伝子突然変異の累積によって生じる種内の分岐を小進化とよび、種以上のレベルの進化をさす大進化と区別した。この区別は現在でも広く採用されているが、進化の基本過程の説明は小進化で足るというのがネオ・ダーウィン主義の現代総合説の立場である。

「進化論」を心から信じている人たちにとって、創造者や神を信じることが、「非科学的」なことに思える気持ちはよく分かります。ボクもそのように思っていたからです。でも、宇宙の第一原因としてのGODを前提としない限り説明できない事柄が多くあることに気づきました。科学的にGODの存在についてアプローチしてみることは、興味深い研究と思索の始まりになるのではないかな、と思っています。科学者の多くもまた「神」を信じています。彼らは皆「マインドコントロール」されたのでしょうか? 客観的な、つまり科学的な立場になって(これは思うより難しいことのようですが)物事を考えてみたいとボクは思っています。

パンセ

人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である

「人間の尊厳のすべては、考えることのなかにある」
「考えが、人間の偉大さをつくる」


ブレーズ・パスカル(1623年 - 1662年)…フランスの哲学者、自然哲学者(近代的物理学の先駆)、思想家、数学者、キリスト教神学者。早熟の天才で、その才能は多分野に及ぶ。ただし、短命であり、三十代で逝去。死後『パンセ』として出版されることになる遺稿を自身の目標としていた書物にまとめることもかなわなかった。(ウィキまとめ)

高校生の時に読んだ「パンセ」は、たしか数巻の固表紙の本でした。「数学的・哲学的」な内容は、とてもボクの手には負えないはずだから、「神学的」な側面の随想を拾い読みしたのかもしれません。記憶の片隅にあるのは「なぜルツ記は保存されたか」とか「預言とその成就は聖書が神の霊感のもとに書かれた証拠だ」とか「神は存在する…なぜならば…」というような思索の断片です。

そんな曖昧な記憶で「パンセ」を語ることはできないなと思い、アマゾンで注文しました。中古なら安いもんです。


パンセ (中公文庫)パンセ (中公文庫)
(1973/12/10)
パスカル

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分厚い文庫本が一冊届きました。さっそくパラパラとめくって拾い読みをしてみると、それはまさに考えの断片の「あまりに未完成な」羅列でした。なつかしいパンセたちでした。相変わらず難しい。

ふと、「280番」に目が留まりました。

「神を知ることと、神を愛することまでのあいだは、なんと遠いことだろう」

なかなかいいこと言ってるね。

「パンセ」のほとんどは「信仰」に関係したものであることを再認識しました。

30歳代で亡くなってしまったパスカル。その若い頭脳は「考える」ことを愛したのですね。
有名な一節は「347番」にありました。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから我々の尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなくてはならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることに努めよう。ここに道徳の原理がある

たしかに、高らかな人間宣言ですね。

西の魔女が死んだ


西の魔女が死んだ (新潮文庫)西の魔女が死んだ (新潮文庫)
(2001/08/01)
梨木 香歩

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ひさしぶりに本の感想を書きますね。今日は久しぶりにのんびりしている日曜日です。

そういえば、小学生の頃、日曜日は読書の日でした。いとこの家にあった「世界名作全集」みたいなものの前に座り込んで、あれこれと読みました。「イワンの馬鹿」のようなロシヤ民話から「荒野の呼び声」のような動物文学、アメリカ開拓時代の「大きな森の小さな家」に出会ったのもここでしたね。たしか「モヒカン族の最後」もあったと思う。「ジャングルブック」や「ターザン」なんかもあった。「ハイジ」も初めて読んだのはここだったかな。

本当に時間を忘れ、空腹も忘れて読んでいました。一番幸福な時間でしたね。今でも図書館でまだ見ぬ本たちに囲まれて座っている時が、ホッとしてわくわくするという不思議な時間になります。

中学高校時代にはまった秘境探検ものやSF小説、そしてその次に「赤毛のアン」に出会った衝撃から、いわゆる「少女小説」なんて呼ばれてしまう分野に深くのめりこみました。それは「児童文学」と呼ばれる本たちへの入り口になりました。自分が児童の時は、ことさらに「児童文学」なんて考えもしなかったけれど、大人になるって理屈っぽいことですね。どうしても分類したがる。

日本の「児童文学」を意識して読み始めたのも二十歳になってからでした。一番の出会いが「誰も知らない小さな国」でしたね。「ファンタジー」なんて分類もあるけれど、作者が織りなす「なつかしさ」と「不思議さ」と「ロマンス」の世界に、ボクはアリスのように迷い込んでしまったのでした。コロボックルの国の「おおらかさ」はボクのあこがれです。

さてさて、「西の魔女」です。

子どもの本の中にも、書かれた「時代」が色濃く反映されます。今現在の子供たちが直面している現実はどのようなものなのでしょう。子どもたちが抱える問題の「重さ」という点では、例えば「戦後」の貧しくて混乱した時代も、戦後のベビーブームによる「団塊の世代」が子どもだった時代も、その「世代」の子供たちの時代も、孫たちの時代である今も、変わりはないのかもしれません。

でも、問題の質はそれぞれの時代で変わってきていると思います。

「西の魔女」の主人公である、中学3年生の「まい」はどんな問題を抱えているのでしょう?

「まい」は中学1年生になったばかりのころ、持病のぜんそくがきっかけで学校に行けなくなってしまう。
「ママ」に向かって「わたしはもう学校へは行かない。あそこは私に苦痛を与える場所でしかないの」ときっぱりと宣言する。もちろんこの「登校拒否」の背景には、クラスになじめず「浮いてしまう」という心の問題があるのですが、ここではそれはあまり詳しくは説明されてはいません。

困ったママは単身赴任中のパパと電話で相談し、祖母が一人で暮らす田舎の実家に「まい」をしばらく預けることにする。
祖母つまりママの母はイギリス人。ママはハーフなのです。
「ママ」が電話で「パパ」と相談している言葉を「まい」は聞いてしまう。
「…感受性が強すぎるのね。どうせ何かで傷ついたには違いないんだろうけど。昔から扱いにくい子だったわ。生きにくいタイプの子よね…」

「ママ」と「まい」にも、仲良し母娘とはいかない「間(ま)」があることが感じられます。
そして、「生きづらさ」という現代人の抱える心の問題もそれとなく語られていますね。

物語は、中学1年生の「まい」が、イギリス人の祖母と過ごした約1か月の出来事が中心となっています。
「まい」を車で送っていった「ママ」と「おばあちゃん」にも、同じような「間」があるようです。
そういえばこの物語、映画にもなっていましたね。家でビデオで見ました。「ママ」は桐島カレンさんが演じていたという記憶になっていましたが調べたら「りょう」さんでした。

「おばあちゃん」の家はイギリス風なのです。取り巻く自然は日本のものですが。映画は淡々とした調子で「おばあちゃん」と「まい」の日常を描きます。原作の物語からはそれほど「淡々とした」感じは受けないのですが、映像からは本来あったであろう「淡々さ」も感じられます。ボクは、その「感じ」は良いと思います。

都会の生活から、田舎の規則正しい生活へと変わった「まい」の心にも変化が訪れます。自然と共に生きる毎日は退屈ではなくなり、元気を与えてくれるものになるのでした。ジャムを作ったり、エプロンを作ったり、手で洗濯をしたり、ハーブティーを作ったりなどという生活のディテールは物語に深みを与えています。木や草や花や動物たちの名前がたくさん出てきます。

自然の描写も素敵です。
「…切り株の一つに腰をかけると、気持ちがしんと落ち着いてきて、穏やかな平和な気分に満たされる。若い楠や栗の木、樺の木などが回りをぐるりと囲んでおり、まいはそこに座っていると、何かとても大事な、暖かな、ふわふわとしたかわいらしいものが、そのあたりに隠れているような気がした。小さな小鳥の胸毛を織り込んで編まれた、居心地のいい、小さな小さな巣のようなもの。『わたしはここが好きだ』 まいは誰にともなく呟いた」

やがて、「おばあちゃん」との会話のなかで、自分の家系が「魔女」の家系であることを知らされます。「魔女」といっても世間一般のイメージとは違うのですが、家系の中に予知能力や透視能力などの特別な力を持つ人たちがいたとのことなのでした。「おばあちゃん」のおばあちゃんが経験した出来事が語られます。ある日、自分の婚約者が暗夜の海でおぼれかけている情景を突然の幻として見たおばあちゃんは、彼の泳いでいる方向が間違っていると直感し、「右へ!」と叫ぶ。後ほど彼女は実際に遭難した婚約者が、絶望的な夜の海の上で「右へ!」と大きく響いた声に導かれ、九死に一生を得た事を知らされるのです。この挿話はこの物語自体の結末へとも結びついていきます。

「おばあちゃん、わたしもがんばったら、その、超能力が持てるようになるかしら」との問いかけに、おばあちゃんは「基礎トレーニング」が必要であることを告げます。「そうね。まず早寝早起き。食事をしっかりとり、よく運動し、規則正しい生活をする」 拍子抜けした「まい」は、それでもちゃんと時間割りを作り、午後の時間は学校の教科の勉強をきちんとすることにします。

田舎の暮らしに快さを感じ始めた「まい」は「おばあちゃん大好き」と言い、おばあちゃんも口ぐせである「アイ・ノウ」と応じる。しかし、「ずっとここで暮らしても良いのですよ」と言ってくれるおばあちゃんの言葉には、とっさに「ママが一人になってしまうし」と断ってしまうのでした。複雑な心理ですね。

隣家に住む、気味の悪い中年男「ゲンジ」を、「まい」は好きになれない。そんなある日、「おばあちゃん」の鶏小屋が野犬らしき動物に荒らされ、「まい」がエサをやっていたニワトリたちの残骸が見つかる。「ゲンジ」さんの飼っている犬がやったんだと思う「まい」と、人を疑ってはいけないと諭す「おばあちゃん」の間にも、少しの「間」ができてしまう。

こんな会話が交わされるのです。
「まいの言うことが正しいのかもしれない。そうでないのかもしれない。でも大事なことは……現在のまいの心が、疑惑とか憎悪といったもので支配されつつあるということなのです」
「わたしは…真相が究明できたときに初めて、この疑惑や憎悪から解放されると思うわ」
むむむ、大人の会話ですね。大人びた「まい」の姿がくっきりと浮かんできます。

単身赴任先から、「まい」に会いに車でやってきたパパが登場。(ボクには)意外に「まい」と「パパ」は仲良しで、気兼ねなく会話をしています。
「健康そうになったね。まるでハイジみたいだ」
「え?」
「ほら、町で病気になったハイジが、山に帰ってすっかり元気になるところがあるだろう?」
「ああ、そうだね」

「パパ」は、「まい」と「ママ」と一緒に単身赴任先で暮らそうと持ちかけます。つまり「まい」は転校することになり、「ママ」もこだわっていた仕事をやめてもいいという気持ちになったのです。

物語の最後に近づき、「まい」は「おばあちゃん」に、学校での「友だちグループ」の「忠誠心」から生じる仲間意識や仲間外れの問題を打ち明けます。二つのグループは「まい」一人を敵にすることで仲良くなる道を選んでいたのです。

「でも、わたしの問題もやっぱりあると思う…わたし、やっぱり弱かったと思う。一匹狼で突っ張る強さを養うか、群れで生きる楽しさを選ぶか…」
ふ~、今の中学生はたいへんですね。学校ってどんなところになっているんだろう。おじいさんのボクの想像は追いつきません。ボクは性格上、いつも一匹狼なのですが、群れを羨んだことも、群れから嫌われたこともなかったと思います。いや、ただ、ぼーっとしていて気が付かなかっただけなのかもしれませんね。

さて、「ゲンジ」さんの行動を巡って、「おばあちゃん」と「まい」の間に、またしても問題が生じてしまいます。心のしこりを残したまま、迎えに来た「ママ」の車に乗りこんだ「まい」は、「おばあちゃん、大好き」の言葉を飲み込んだまま、おばあちゃんと別れてしまうのです。

その二年後、新しい学校の中学3年生になっていた「まい」は「魔女が倒れた。もうダメみたい」という「ママ」と共に、学校を早退して「おばあちゃん」の家に向かいます。二人の間では「おばあちゃん」のことを「西の魔女」と呼んでいたのです。ママは雨が降っているのに車のワイパーを回すことも忘れるほど動転し、涙を流している。

「おばあちゃん」の家で亡くなっている「おばあちゃん」と対面します。そういえば以前、「おばあちゃん」は自分が死んだら「まい」に知らせますよ、と言っていました。どうなるのでしょう?

物語の最後のクライマックスは、本当に水際立った、素晴らしいものです。
興味のある方は、どうぞお読みになってくださいね。

ボクは、子どもの「暗い」現実を描いただけの「児童文学」には拒否反応があるのですが、この物語に代表されるように、現在の子供たちが置かれている状況と向き合い、愛情や勇気や希望を与える物語には、とても啓発を受けます。読んで良かったなとおもう一冊でした。

「生物進化を考える」


生物進化を考える (岩波新書)生物進化を考える (岩波新書)
(1988/04/20)
木村 資生

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「分子進化の中立説」を提唱し、「分子進化時計」の発見というきっかけをつくった、木村資生(もとお)博士が、26年ほど前に書いたものです。大学生必読の書と呼ばれているそうです。

権威ある学者の書いた本ですから、ボクみたいな素人がどうのこうの言ってもしかたないのですが、ボクにとって考える縁(よすが)になったのは確かなので、ちょっとですが、感想を書きます。

愛1章で、「生物の多様性」が驚嘆すべきものであることを述べた後に、さっそく「事実としての生物進化」という見出しのもとに、進化が疑いようのない事実であるという博士の信念が説明されます。「進化の証拠」として挙げられた5つの点について考えます。ちょっと長いけど引用しますね。

第一に、進化のもっとも直接的な証拠は過去の生物の遺体である化石の研究から得られる。異なった地層に含まれる化石を地層の年代に沿って並べてみると、生物が遠い過去から次第に変化し現在に至った道筋がよく分かる。また、現存の各種生物の間の中間型が化石としてしばしば発見されることも重要である。たとえば、初期の両生類の中にはイクチオステガと呼ばれる四本の短い足と魚のような尾びれをもった、ちょうどかえるに魚の尾を取り付けたような移行型がいたことは興味深い。
第二は生物の分類の研究から得られるもので、互いに似たものを群れにして比較してみると、各種の生物はまったく独立のものではなく、いろいろの程度の類縁関係にあることが示される。
第三に、地理的分布を調べると、種が次第に環境に適応して分化していったと考えないと理解できないことが多い。
第四に、生物の形態、生理、発生、行動などを比較した時、生物の各種は進化によって導かれたと考えて初めてよく理解される事実が数多くみられる。たとえば、ヒトの発生の初期には、えらを持つ時期があり、後に尾のついた時期を経て赤ん坊として生まれるという事実は、ヒトの祖先がえらをもち水中生活をした魚や、尾をもったサルのような動物を経て進化してきたと考えると自然に理解される。
第五は、タンパク質やDNAなど情報高分子の比較から得られる証拠である。これについては後ほど、分子進化を扱う第七章で詳しく述べるが、例えば血色素ヘモグロビンのアミノ酸配列一つとっても、これを各種の脊椎動物で比べると分類学的な近縁関係に比例し、異なっていることがわかる。これは共通の祖先ヘモグロビン分子から出発し、各種の生物が突然変異の種内蓄積を通して互いに分化してきた結果としか考えようがない。DNAの塩基配列の比較研究はこのことを一層はっきりさせてくれる。さらにまた、遺伝暗号の普遍性は地球上の全生物が共通の祖先分子から導かれたことを示している。

ふうっ、長いですね。

第一の証拠は、やはり化石がとりあげられていますね。化石の証拠は、博士が説明するようには「整然」としていないことを、他の科学者の言葉としてたくさん読んできました。例えば…
「化石を隔てる時間の幅は莫大なものであるから、祖先と子孫による結ぶつきの可能性について、はっきりとしたことは全く何も言うことはできない」、「(一つ一つの化石は)他のどんな化石との関連をも知ることができない孤立した一点であり、そのすべてが広大な海の上を圧倒的に隔絶されて漂っている」、「一連の化石を取り、それらが一つの血の系統をなしているという主張は、検証できる科学的な仮説の主張ではない。それはおとぎ話以上の信憑性をもつものでなく、おもしろく教訓的にさえなるかもしれないが、およそ科学的ではない」ネイチャー誌の主筆サイエンス・ライターのヘンリー・ジー、1999年
議論はありますが、カンブリア紀に多くの種の生物が突然現れるという事実もあります。

第二は、つまり生物は似たもの同士に分類できるということでしょうが、これは証拠と言うには弱いですね。例えば自動車の「メーカー」が、共通の土台からいろいろなモデルを作り上げるのと同じで、「クリエーター」が生物にバリエーション(変異・変形)を与えたと考えることも無理なくできるからです。

第三は、具体例がないので、何とも言えませんが、生物の持つ環境への適応力によって説明することができるのではないかなと思います。種の内部では、確かに生物は驚くべき適応や変容を遂げます。そうした意味での「小進化」は事実であるとボクも認めています。ついでに言えば、この本の中では、やはりショウジョウバエやフィンチなどが証拠として取り上げられていますから(それらは別の種になったわけではありません)、「小進化」と「大進化」の混同が見られます。
第8章で、短く、「大進化」の要因が述べられていますが、(フィンチのような)環境的な「隔離」や「新しい生活環境」の出現がその要因であると述べるにとどめられています。どうして種の垣根を超えられるのか、何の説明もなく説得力もありませんでした。ボクが聞きたいのは、例えば鳥の翼や羽根の複雑で緻密な作りが、盲目的な突然変異の積み重ねで、どうして出現すると言えるのかということに対する説明です。「長い間に」小動物がジャンプしたり、木から飛び降りたりしているうちに徐々にできたなどという、子供だましな説明ではない、ちょっとでもいいから「なるほど」と思える説明が聞きたいのです。
→多様性の創始者③翼の造り
→多様性の創始者④飛行の起源

第四は、一例として挙げられている「えら」や「尾」は、「ヘッケルの胚」の図表を連想しますが、この図表が事実に合わない、偽造であることは科学者の間でも認められています。(参照:「進化のイコン」ジョナサン・ウェルズ)
「哺乳類のような高等な動物は、魚のえらの裂け目に似た構造をもつ胚発生の段階を通過する。しかし、この類似性は幻想で、哺乳類の胚の構造は、胚段階の魚の、将来はえらになる構造物に似ているに過ぎない」発生学者ルイス・ウォルパー
「〈咽頭のアーチ〉という概念は、純粋な描写的なものであり…、それは首の部分に表れるひだを描写するだけである。人間にはえらは決して存在しない」発生学者ギュンター・ラーガー

第五は、第二と同じで、分子レベルでの類似性や遺伝暗号の普遍性は、同じ「クリエーター」がいる証拠とも解釈できます。
「似ているから進化した証拠だ」⇔「進化したから似ているのだ」という循環論法のように思います。

以上、これこそが証拠であるとして並べられた項目を見ても、ボクにはどうしても納得ができません。もっとガツンと、ぐうの音も出ないほどに、ボクをやっつけてほしいのですが……疑念はますます増すばかりです。

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(金時豆太郎)60才のおじいさんです。若いころから児童文学が大好きです。神さまを信じるクリスチャンなので、聖書も大好きです。よろしくね。
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